マイクロアグレッション(microaggression)とは、日本語に訳せば「小さな攻撃性」です。具体的には「無意識の偏見や差別によって、誰かを傷つけること」を指します。
1970年当時、黒人が白人の同僚から日常的に受けるさりげない差別を意味する言葉として、ハーバード・メディカルスクール教授の精神科医、チェスター・ピアスがはじめて使ったといわれています。
そのときの定義は「意図的か否かにかかわらず、政治的文化的に疎外された集団に対する何気ない日常の中で行われる言動に現れる偏見や差別に基づく見下しや侮辱、否定的な態度のこと」です。したがって、現代の「無意識の〜」という解釈よりも(意図的なものを含むという意味で)広い概念といえます。
その後、コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジ教授の心理学者、デラルド・ウィン・スー(中国系アメリカ人)が、あらためて「マイクロアグレッション」という言葉を使ったのが2007年です。
2010年には『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション ― 人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』の初版が刊行され、中国系アメリカ人であるスー自身の体験も含めて、日常で起こるマイクロアグレッションの実例が多数明らかにされました。
このような経緯を踏まえつつ、以下では身近な事例を通してマイクロアグレッションについて考えてみましょう。
マイクロアグレッションの例
人種、ジェンダー(性差)、個人的な特性の観点から、マイクロアグレッションの具体例を挙げます。
人種に関するマイクロアグレッション
- 「日本語がお上手ですね」(外国人やハーフの人に対して)
- 「ハーフ(やクォーター)って、かっこいいよね」
- 「運動神経がよさそう」(黒人に対して)
- 「日本人なのに数学が不得意なんだね」
- 「ブラジル人だからサッカーが得意なんでしょう?」
ジェンダーに関するマイクロアグレッション
- 「彼氏(または彼女)はいないの?」
- 「まだ結婚しないの?」
- 「男のくせに、お酒が飲めないの?」
- 「女性なのに、字が汚いね」
- 「あ、そうだったなんて意外」(LGBTQの人に対して)
個人的な特性に関するマイクロアグレッション
- 「血液型は◯型か。だから◯◯なんだね」
- 「ご飯を大盛りにしないの?」(大柄な人に対して)
- 「◯◯大学出身なのに、意外と仕事が遅いんだね」
- 「◯◯県出身なのに、肌の色が濃いね」
- 「職業が◯◯だと、やっぱり◯◯なんでしょう?」
以上、比較的穏当な例を挙げてみましたが、人によってはもっと酷いマイクロアグレッションを、日常的に受けている可能性があります。
たとえば、ある社会においてマイノリティとされている人、身体的・精神的な障害をもっている人だけでなく、何らかの理由で心に余裕がない人、苦境にある人などです。つまり、マイノリティでなくても、障害をもっていなくても、マイクロアグレッションによって大きく傷つく可能性は誰にでもあるのです。
マイクロアグレッションの何が問題なのか
マイクロアグレッションの問題点としては、
- そのつもりはなくても、結果的に相手を傷つけてしまうこと
- 相手を褒めたつもりでも、実は傷つけてしまっていること
の2点が挙げられます。
つまり、何気ない会話の中で、悪意なく相手を傷つけてしまう可能性がある、という認識が必要です。「アンコンシャスバイアス(無意識の偏見)」という言葉があるように、明らかな差別意識ではなく、思い込みや無知、身につけている常識の違いなどが「偏見」というかたちで、時として言葉にあらわれてしまうことがあるのです。
また、自分にとっては何気ない一言であっても、相手は同じようなことを何度も言われている可能性があります。それが積み重なれば積み重なるほど大きなストレスとなり、心身に影響が出る場合だってあるはずです。
私たち一人ひとりが、「できるだけ、マイクロアグレッションに該当するような発言をしない」と心がけることが大切なことは、このような点からもいえるのです。
微妙な場面でのマイクロアグレッション
電車で老人に席を譲る行為を考えてみましょう。多くの場合は「親切」と思えますが、当の本人は「年寄り扱いされた」と憤るかもしれず、実際にそのような事例を見聞きします。
筆者自身も、若いころに若者扱いされることに違和感がありました。たとえば「◯◯さんは、まだ若いから」という発言に対して、それが好意的に「若いから勢いがある」「若いからチャレンジできる」という意味で発せられた言葉だとしても、「自分は未熟だと思われているんだ」と受け止めたことが何度もあったのです。
みなさんも、自分が過去に受けた言葉を思い起こせば、同じようなことを何度か経験しているはずです。「傷ついた」とまではいかなくても、何となく覚えた違和感。このような経験を通じて、自分だったらどのように表現するだろうと考えてみることが、マイクロアグレッションを防ぐひとつのアプローチだと考えます。
マイクロアグレッションを強調することへの懸念
アメリカの社会学者、ブラッドリー・キャンベルとジェイソン・マニングは、2018年の共著『Rise of Victimhood Culture(被害者文化の台頭)』の中で、マイクロアグレッションは「被害者意識(victim mentality、何か問題が起こったときに即座に自分はその被害者・犠牲者だと思うこと)」を助長させ、当人同士で問題解決する力を低下させ、被害者・加害者という二者の道徳的な対立を生み出す、としています。
たしかに、ポリティカルコレクトネス(政治的妥当性)やBLM(ブラックライブズマター)の議論などでそのような傾向が見られ、特に後者では度重なる暴動や略奪にまで発展した事実があります。
どれだけ「マイクロアグレッションにならないように」と心がけて発言しても、「その言葉づかいは問題だ」「傷つく人がいる」とあげ足をとることができます。人それぞれ、特に人種、ジェンダー、育った環境などが違えば、身につけている常識は異なります。
大切なことは、対立を生み出さないように、悪意がないと感じられる発言に対しては、過敏に反応しないことだと考えます。それでもなお、看過しがたい発言であれば「そんな言い方はないんじゃないの」と諭すこと、冷静に自分の意見を相手に伝えることで、立ち止まって一緒に考えてみましょう。
まとめ
マイクロアグレッションによって傷ついている人がおり、私たち一人ひとりの心がけによってできるだけ防ぐことが大切である一方、過度に意識してしまうと、被害者と加害者という対立を生み出すという指摘にも頷けます。
また、日本という同質性や同調性が高い社会では、あからさまな差別は少ない代わりに、マイクロアグレションを受ける機会が多く、モヤモヤとした思いを抱えている人、苦しんでいる人がけっして少なくないと想像します。
この記事が、マイクロアグレッションを知り、自分自身の日ごろの発言を振り返るきっかけになれば幸いです。